投稿

賢治の伝説

賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の神格化が甚だしいと指摘されている。 こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。 伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと山下聖美は推測している。現代では吉田司の『宮沢賢治殺人事件』のように聖人イメージを破壊するという著作もあらわれている。 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に三陸地震津波が、誕生直後にも陸羽地震が発生した。 清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している。また、没年の3月3日に「三陸沖地震」が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。  尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった。 メンコで遊んでいたとき、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった。  いたずらをした罰として水を満杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒がいた。先生の用で廊下に出た賢治は「ひどいだろう、大変だろう」と茶碗の水を飲み干してやった。 尋常小学校2年の時、4人の小学生が豊沢川に流され2人が亡くなった。子供を捜索する船の明かりを大勢の人が集まり豊沢橋の上から見守っていた。賢治も同級生が流されたと聞いてこれを見ており、のちに創作のモチーフとなった。

オノマトペ

また、童話作品においては擬声語(オノマトペ)を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものであった。 賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ、軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている。 賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。 これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である。

消えたブルカニロ博士

宮沢賢治の作品は未完の物語が数多くあります。 あの有名な銀河鉄道の夜も例外ではありません。賢治の死後、草稿の形で遺された『銀河鉄道の夜』は欠落部分を持つ未定稿であり、しかも本文が全集が出版される毎に変わるという不安定な状態が長く続いていました。銀河鉄道の夜に旧版と新版があるのはそのためです。 旧版の銀河鉄道には物語のカギを握る“ブルカニロ博士”という人物が存在します。新版には全く登場しない人物ですが、旧版にはとても重要な人物として描かれています。 「やさしいセロのような声」をした博士はジョバンニにものの見方や考え方などを指し示す役割をしていました。 初稿から第3次稿まで登場しましたが、第4次稿では全てのシーンがカットされることとなります。賢治が年数をかけなんども書き直していた作品のため遺族と研究者が解読して、賢治の書いた文章をできるだけ生かそうと賢治が推敲の過程で削除したブルカニロ博士の挿話をあえて本文に載せたものが旧版の銀河鉄道の夜となるのでしょう。 博士は最後に手帳に物語を残したと言っています。まるで手帳に詩や童話を記す賢治のスタイルそのもの。博士に賢治の姿を重ねてつい読んでしまいます。賢治もまた「やさしいセロのような声」をしていたのでしょうか。 現在流通しているのは新版の銀河鉄道の夜です。ブルカニロ博士の登場する旧版銀河鉄道の夜も併せて読みたいものですね。 「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。」 旧版 銀河鉄道の夜 より

猫と風

1998年頃に、山折哲雄がある小学校で授業をした際に、賢治の3つの作品『風の又三郎』、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは風がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。 この時、子供の一人が「猫」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。 ところがこのエピソードを聞いた河合隼雄は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。 しかし、賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られ、現実には賢治は猫は好きではなかったと推測している。

永久の未完成

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。 また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。 ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。最初の全集は(作品全体からは一部の収録ではあるものの)早くも死去の翌年に野々上慶一が営んでいた文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店が、それに増補する形で1939年から1944年にかけて出版した。 戦時下、『雨ニモマケズ』は滅私奉公的に受け取られ、求道者としての賢治像ができあがった。戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されている。戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムを聖化する一方、反動としての批判、『雨ニモマケズ』論争が行われるなど再評価の動きもあらわれた。 賢治の作品は、一旦完成したあとも次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。 これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものがひとつの作品と言える。『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度も修正した跡が残されていて、全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。 そうした背景から原稿の徹底した調査に基づき、逐次形態を全て明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。これ以後、文学研究の対象として、賢治とその作品を論評する動きが増え、精神医学・地学・物理学など他の領域や時代背景を踏まえた論考も多くなった。

恋物語

青空文庫(あおぞらぶんこ)は、著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館である。その中に宮沢賢治の著書が数多く存在しているので少しご紹介したい。  軽便鉄道の東からの一番列車が少しあわてたように、こう歌いながらやって来てとまりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、ほそ長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。 上記文はシグナルとレグナレスという宮沢賢治の物語である。 本線の信号機シグナルと、軽便鉄道の小さな腕木式信号機シグナレスの、淡く切ない恋物語。賢治独特の暖かいユーモアに満ち溢れた作品である。シグナルは東北本線の信号機が擬人化された男性のキャラクターで、シグナレスは釜石線(当時は岩手軽便鉄道)の信号機が擬人化された女性のキャラクターである。賢治が居住していた岩手県花巻市の花巻駅にはこのふたつの路線が乗り入れており、そこから着想を得た、と言われている。 また、信号機たちが「蒸気機関車の父」と呼ばれるジョウジ・スチブンソンの名前を挙げて、願いをかなえられるよう祈りを捧げる描写がある。 なんと、宮沢賢治の物語にレンライなるものが存在しようとは…とびっくりした。 どうしたんだ賢治。 しかし 五日の月が、西の山脈の上の黒い横雲から、もう一ぺん顔を出して、山に沈む前のほんのしばらくを、鈍い鉛のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重ねられた黒い枕木はもちろんのこと、電信柱までみんな眠ってしまいました。遠くの遠くの風の音か水の音がごうと鳴るだけです。 こんな文面を見るとあぁ、やっぱり彼の作品だなぁとホッとするのである。

人の幸福を願う人生

1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学、寄宿舎「自啓寮」に入寮。 16日の入学宣誓式では総代として誓文を朗読。 翌年、特待生に選ばれ授業料を免除される。高等農林では農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属し、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受ける。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる。このころ毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の保阪嘉内と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、のちの賢治の羅須地人協会の構想にも影響を与えたといわれる。1917年(大正6年)7月、保阪、小菅健吉、河本義行(河本緑石)らと同人誌「アザリア」発行。賢治は短歌や短編を寄稿。1918年(大正7年)、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』[1]を提出し、検査延期を拒否。化学工業方面に進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった。 3月13日、保阪嘉内が「アザリア」に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった。15日、農学校を卒業、研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる。これは関からの推薦によるものであった。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった。またこのころから5年間菜食生活をする。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除。6月30日、岩手病院で肋膜炎の診断を受け、山歩きを止められたため、退学を申し出たが土性調査は9月まで続け報告書を提出した。7月4日花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に「私の命もあと十五年はありません」と語ったという。8月『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆、家族に朗読している。 賢治は兵役免除の際に余命わずかと宣告されました。 残りわずかと知った賢治の人生は人のために生きようとするかのように歩んでいきます。