淡い恋心と近づく死の気配
1928年(昭和3年)6月 、胆沢郡水沢町(水沢市)の豪家出身で、伊豆大島に住む伊藤七雄を訪問。
伊藤は結核療養のため大島に移り、ここに園芸学校を建設するにあたって賢治の助言を得るため相談していた(1931年伊藤の死去に伴い学校は消滅した)。
この訪問は伊藤の妹・チヱとの見合いの意味もあったが、チヱの回想によれば賢治は結婚について全く眼中にない様子だったという。しかし1931年森荘已池を訪ねた賢治は「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話している。
「昭和六年(略)宮沢さんは私を、勤め先の岩手日報社に訪ねられ、その折(略)伊藤さんと結婚するかも知れませんといわれ、けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主になるでせう。―というような意味のことをいわれたのでした」(『宮沢賢治の肖像』)
「あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から楽しそうに兄と話して居られましたが、その御話の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらっしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かせられました」
とうとう賢治とチヱは結びつくことなく、やがて七郎も死ぬことにより、別々の人生へと歩みは分かれてゆくことになる。
肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺湿潤との診断を受ける。
以後実家で病臥生活となる。
伊藤は結核療養のため大島に移り、ここに園芸学校を建設するにあたって賢治の助言を得るため相談していた(1931年伊藤の死去に伴い学校は消滅した)。
この訪問は伊藤の妹・チヱとの見合いの意味もあったが、チヱの回想によれば賢治は結婚について全く眼中にない様子だったという。しかし1931年森荘已池を訪ねた賢治は「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話している。
「昭和六年(略)宮沢さんは私を、勤め先の岩手日報社に訪ねられ、その折(略)伊藤さんと結婚するかも知れませんといわれ、けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主になるでせう。―というような意味のことをいわれたのでした」(『宮沢賢治の肖像』)
「あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から楽しそうに兄と話して居られましたが、その御話の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらっしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かせられました」
とうとう賢治とチヱは結びつくことなく、やがて七郎も死ぬことにより、別々の人生へと歩みは分かれてゆくことになる。
肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺湿潤との診断を受ける。
以後実家で病臥生活となる。
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