アメニモマケズ

1930年(昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる。5月、東磐井郡陸中松川駅前の東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する。

 1931年(昭和6年)2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。
父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資をおこなって花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった。しかし技師となった賢治は製品の改造・広告文の起草・製品の注文取り・販売などで東奔西走する。
農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キロもの製品見本を鞄に詰めて上京する。
翌20日、神田駿河台の旅館「八幡館」に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。
政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻った。すぐ病臥生活となる。

11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書く。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

※上記、宮沢賢治の詩は著作権が切れていますので掲載いたしました

コメント

このブログの人気の投稿

宮沢賢治の幼少期

消えたブルカニロ博士

賢治は猫が嫌い?