道楽の農業
1926年(大正15年)3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いているが、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では「来春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意をしている。
4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装して、周囲を開墾し畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなどを栽培、チューリップやヒアシンスを咲かせた。
賢治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。
農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んですませている。また畑の白菜を全て盗まれるといういやがらせにあった話を詩に残している。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習をはじめた。6月『農民芸術概論綱要』起稿。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。 また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談にのった。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている。 12月2日、上京。タイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語を習い、観劇をする。
資金は父親頼みだった。18日、高村光太郎を訪ねている。年末帰花。
1927年(昭和2年)2月1日 、 岩手日報夕刊二面で「農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで賢治の活動が紹介される。これが社会主義教育と疑われ花巻警察の聴取を受ける。以後羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散した。
本統の百姓になろうとした賢治だったが、家に既にあった別邸、高級品のリヤカーを使い、お金を包んで解決する。
貧困の農夫からはそんな賢治が異様にうつり、受け入れることができなかったのでしょう。
4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装して、周囲を開墾し畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなどを栽培、チューリップやヒアシンスを咲かせた。
賢治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。
農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んですませている。また畑の白菜を全て盗まれるといういやがらせにあった話を詩に残している。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習をはじめた。6月『農民芸術概論綱要』起稿。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。 また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談にのった。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている。 12月2日、上京。タイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語を習い、観劇をする。
資金は父親頼みだった。18日、高村光太郎を訪ねている。年末帰花。
1927年(昭和2年)2月1日 、 岩手日報夕刊二面で「農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで賢治の活動が紹介される。これが社会主義教育と疑われ花巻警察の聴取を受ける。以後羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散した。
本統の百姓になろうとした賢治だったが、家に既にあった別邸、高級品のリヤカーを使い、お金を包んで解決する。
貧困の農夫からはそんな賢治が異様にうつり、受け入れることができなかったのでしょう。
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