最後の別れ

1932年(昭和7年)3月、「児童文学」第二冊に『グスコーブドリの伝記』発表。
挿絵は棟方志功。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む。前年冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった。

1933年(昭和8年)9月17日から19日まで鳥谷ヶ崎(とやがさき)神社のお祭りが行われ、賢治は門口に椅子を出して座り神輿や山車を見物した。
翌日の朝、昨夜賢治が門口にいるのを見た農民が相談に来た。
話をしたあと賢治は呼吸が苦しくなり、往診した医者から急性肺炎のきざしと診断される。その夜、別の農民が稲作や肥料の相談にやってくる。
賢治は着物を着換え1時間ほど丁寧に相談にのったあと、すぐ二階の病室に運ばれた。
心配した清六がつきそって一緒に寝たが、賢治は「この原稿はみなおまえにやるから、もし小さな本屋からでも出したいところがあったら出してもいい」と話した。

 9月21日 、午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と唱題する声が聞こえたので家族が急いで二階の病室に行ってみると、賢治は喀血し真っ青な顔になっていた。
政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。
政次郎が「おまえもなかなかえらい」と答えて階下に降りると、賢治は清六に「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言った。
病室に残ったイチが賢治に水を飲ませ、体を拭いてやると「ああいい気持ちだ」と繰り返し、午後1時半、呼吸が変わり潮がひくように息を引き取った。

没時年齢は満37歳。
葬儀は宮沢家の菩提寺で営まれたが、18年後の1951年(昭和26年)宮沢家は日蓮宗に改宗し、墓所は花巻市の身照寺に移された。
また国柱会から法名「真金院三不日賢善男子」が送られた。
江戸川区の国柱会には賢治の遺骨の一部が納められている。

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