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賢治の伝説

賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の神格化が甚だしいと指摘されている。 こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。 伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと山下聖美は推測している。現代では吉田司の『宮沢賢治殺人事件』のように聖人イメージを破壊するという著作もあらわれている。 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に三陸地震津波が、誕生直後にも陸羽地震が発生した。 清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している。また、没年の3月3日に「三陸沖地震」が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。  尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった。 メンコで遊んでいたとき、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった。  いたずらをした罰として水を満杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒がいた。先生の用で廊下に出た賢治は「ひどいだろう、大変だろう」と茶碗の水を飲み干してやった。 尋常小学校2年の時、4人の小学生が豊沢川に流され2人が亡くなった。子供を捜索する船の明かりを大勢の人が集まり豊沢橋の上から見守っていた。賢治も同級生が流されたと聞いてこれを見ており、のちに創作のモチーフとなった。

オノマトペ

また、童話作品においては擬声語(オノマトペ)を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものであった。 賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ、軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている。 賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。 これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である。

消えたブルカニロ博士

宮沢賢治の作品は未完の物語が数多くあります。 あの有名な銀河鉄道の夜も例外ではありません。賢治の死後、草稿の形で遺された『銀河鉄道の夜』は欠落部分を持つ未定稿であり、しかも本文が全集が出版される毎に変わるという不安定な状態が長く続いていました。銀河鉄道の夜に旧版と新版があるのはそのためです。 旧版の銀河鉄道には物語のカギを握る“ブルカニロ博士”という人物が存在します。新版には全く登場しない人物ですが、旧版にはとても重要な人物として描かれています。 「やさしいセロのような声」をした博士はジョバンニにものの見方や考え方などを指し示す役割をしていました。 初稿から第3次稿まで登場しましたが、第4次稿では全てのシーンがカットされることとなります。賢治が年数をかけなんども書き直していた作品のため遺族と研究者が解読して、賢治の書いた文章をできるだけ生かそうと賢治が推敲の過程で削除したブルカニロ博士の挿話をあえて本文に載せたものが旧版の銀河鉄道の夜となるのでしょう。 博士は最後に手帳に物語を残したと言っています。まるで手帳に詩や童話を記す賢治のスタイルそのもの。博士に賢治の姿を重ねてつい読んでしまいます。賢治もまた「やさしいセロのような声」をしていたのでしょうか。 現在流通しているのは新版の銀河鉄道の夜です。ブルカニロ博士の登場する旧版銀河鉄道の夜も併せて読みたいものですね。 「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。」 旧版 銀河鉄道の夜 より

猫と風

1998年頃に、山折哲雄がある小学校で授業をした際に、賢治の3つの作品『風の又三郎』、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは風がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。 この時、子供の一人が「猫」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。 ところがこのエピソードを聞いた河合隼雄は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。 しかし、賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られ、現実には賢治は猫は好きではなかったと推測している。

永久の未完成

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。 また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。 ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。最初の全集は(作品全体からは一部の収録ではあるものの)早くも死去の翌年に野々上慶一が営んでいた文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店が、それに増補する形で1939年から1944年にかけて出版した。 戦時下、『雨ニモマケズ』は滅私奉公的に受け取られ、求道者としての賢治像ができあがった。戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されている。戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムを聖化する一方、反動としての批判、『雨ニモマケズ』論争が行われるなど再評価の動きもあらわれた。 賢治の作品は、一旦完成したあとも次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。 これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものがひとつの作品と言える。『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度も修正した跡が残されていて、全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。 そうした背景から原稿の徹底した調査に基づき、逐次形態を全て明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。これ以後、文学研究の対象として、賢治とその作品を論評する動きが増え、精神医学・地学・物理学など他の領域や時代背景を踏まえた論考も多くなった。

恋物語

青空文庫(あおぞらぶんこ)は、著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館である。その中に宮沢賢治の著書が数多く存在しているので少しご紹介したい。  軽便鉄道の東からの一番列車が少しあわてたように、こう歌いながらやって来てとまりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、ほそ長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。 上記文はシグナルとレグナレスという宮沢賢治の物語である。 本線の信号機シグナルと、軽便鉄道の小さな腕木式信号機シグナレスの、淡く切ない恋物語。賢治独特の暖かいユーモアに満ち溢れた作品である。シグナルは東北本線の信号機が擬人化された男性のキャラクターで、シグナレスは釜石線(当時は岩手軽便鉄道)の信号機が擬人化された女性のキャラクターである。賢治が居住していた岩手県花巻市の花巻駅にはこのふたつの路線が乗り入れており、そこから着想を得た、と言われている。 また、信号機たちが「蒸気機関車の父」と呼ばれるジョウジ・スチブンソンの名前を挙げて、願いをかなえられるよう祈りを捧げる描写がある。 なんと、宮沢賢治の物語にレンライなるものが存在しようとは…とびっくりした。 どうしたんだ賢治。 しかし 五日の月が、西の山脈の上の黒い横雲から、もう一ぺん顔を出して、山に沈む前のほんのしばらくを、鈍い鉛のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重ねられた黒い枕木はもちろんのこと、電信柱までみんな眠ってしまいました。遠くの遠くの風の音か水の音がごうと鳴るだけです。 こんな文面を見るとあぁ、やっぱり彼の作品だなぁとホッとするのである。

人の幸福を願う人生

1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学、寄宿舎「自啓寮」に入寮。 16日の入学宣誓式では総代として誓文を朗読。 翌年、特待生に選ばれ授業料を免除される。高等農林では農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属し、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受ける。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる。このころ毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の保阪嘉内と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、のちの賢治の羅須地人協会の構想にも影響を与えたといわれる。1917年(大正6年)7月、保阪、小菅健吉、河本義行(河本緑石)らと同人誌「アザリア」発行。賢治は短歌や短編を寄稿。1918年(大正7年)、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』[1]を提出し、検査延期を拒否。化学工業方面に進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった。 3月13日、保阪嘉内が「アザリア」に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった。15日、農学校を卒業、研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる。これは関からの推薦によるものであった。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった。またこのころから5年間菜食生活をする。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除。6月30日、岩手病院で肋膜炎の診断を受け、山歩きを止められたため、退学を申し出たが土性調査は9月まで続け報告書を提出した。7月4日花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に「私の命もあと十五年はありません」と語ったという。8月『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆、家族に朗読している。 賢治は兵役免除の際に余命わずかと宣告されました。 残りわずかと知った賢治の人生は人のために生きようとするかのように歩んでいきます。

宮沢賢治の幼少期

宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年8月27日 - 1933年9月21日)は、日本の詩人、童話作家。 仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行い、創作作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。生前彼の作品はほとんど一般には知られず無名に近かったが、没後草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。そうした経緯もあって日本には広く愛好者がおり、出身地である岩手県花巻市は彼の故郷として有名である。 1896年(明治29年)8月27日、父宮澤政次郎と母イチの長男として生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も履歴書に1日と書いているが、27日と推定されている。イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生。母・イチは賢治を収容したえじこ (乳幼児を入れ守る籠) を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた。 3歳のころ、婚家から出戻っていた父の姉のヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという]。1902年(明治35年)赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染、大腸カタルを起こし一生胃腸が弱くなった。 1903年(明治36年)花巻川口尋常小学校(2年後花城尋常小学校に改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親(五来素川の翻案マロの『家なき子』)』『海に塩のあるわけ(民話「海の水はなぜ辛い」)』などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた。のちに賢治は八木と再会したとき「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている。鉱物採集、昆虫の標本づくりに熱中するようになり、11歳のころ家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした。 鉱物ずきなのはここから始まったんですね。

宇宙ってなんだろう?

そもそも宇宙ってなんでしょう。 ググってみたところ観測可能な宇宙の範囲内だけでもおそらく1000億個(1011個)の銀河が存在している 。 《地球上から見ることができる宇宙の大きさ》とは、我々人間が物理的に観測可能な宇宙の時空の最大範囲を指す表現である。とのこと… さっぱりです。もう少し深く掘り下げ調べました。 宇宙について説明するにあたり、まず人類がどのように宇宙の理解を深めてきたか、おおまかな流れを解説する。 宇宙がいかに始まったか。この議論は宗教や哲学上の問題として語られて続けている[5]。宇宙に関する説・研究などは宇宙論と呼ばれている。 古代インドのヴェーダでは無からの発生、原初の原人の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論があった。古代ギリシャではヘシオドスの『神統記』に宇宙の根源のカオスがあったとする記述があったが、ピタゴラス学派は宇宙をコスモスと見なし、天文現象の背後にひそむ数的な秩序を説明することを追究した。秩序の説明の追究は、やがてエウドクソスによる、地球を27の層からなる天球が囲んでいる、とする説へとつながり、それはまたアリストテレスへの説へと継承された。2世紀ころのクラウディオス・プトレマイオスは『アルマゲスト』において、天球上における天体の動き(軌道)の数学的な分析を解説した。これによって天動説は大成され、ヨーロッパ中世においてもアリストテレスの説に基づいて宇宙は説明された。しかし天球を用いた天体の説明は、その精緻化とともに、そこにおける天球の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていった。こうした状況に対し、ニコラウス・コペルニクスは従来の地球を中心とする説(地球中心説)に対して、太陽中心説を唱えた。この太陽中心説(地動説)は、当初は惑星軌道が楕円を描いていることが知られていなかったために周転円を用いた天動説よりも精度が低いものであったが、やがてヨハネス・ケプラーによる楕円軌道の発見などにより地動説の精度が増していき、天動説に代わって中心的な学説となった。宇宙は始まりも終わりも無い同じ状態であるものとアイザック・ニュートンは考え[5]、『自然哲学の数学的諸原理』の第3巻「世界の体系について」において、宇宙の数学的なしくみを説明し、地球上の物体も太陽のまわりをまわる惑星も、それまで知られなかった万有引力というものを...

星座の始まり

夜空を見上げると、星が輝いています。最近は、街の明かりがどんどん明るくなってしまって、たくさんの星々、満天の星空を見ることが難しくなってきました。でも、車で高い山などに登ると、(大崎地方ではちょっとたんぼ道を歩くと?)昔の人たちがみたような満天の星空を楽しむことができます。  昨年パレットおおさきに「一番、最初に星をみていたのは誰?」という質問が届きました。誰という質問には答えられなかったのですが、いろいろ調べていくうちにフランスのラスコー壁画(1万5千~1万年前)に描かれたいくつかの黒い点々が、おうし座のすばるを、また夏の大三角と模写したと思われる、というのです。この研究が正しければ、「星をみてそれを記録した最古の人々は」1万5千~1万年前のフランスに住む旧石器時代の芸術家たち、ということになるでしょうか。 それから時代が進み、昔の人々は、明るい星をむすんで「星座」を想い描きました。星座とは、星と星を結び,動物や人物、道具などに見立てて,天球上の区分としたものです。 星座は、英語で、コンステレーション constellation です。 con は「共に」という意味があり、 stella は「星」、 tion は名詞につく語尾の言葉ですので、直訳すれば「星の集まり」「星の散らばり」となるでしょう。  現在普通に使われている星座は、西洋から伝えられた星座です。しかし、日本で星座といえば、明治初期までは、中国の星座「星宿」でした。西洋の星座が日本に入ってきた明治期以降も、しばらくの間、 constellation は「星宿」と訳され、大正期ごろよりやっと「星座」と呼ばれることになったようです。 さて、星座は、いつ、どこでだれがつくったのでしょうか。 かつて、星座は「ギリシア星座」と呼ばれていた時代がありました。ご存じのように、星座には、豪華絢爛、ドラマチック、ロマンティックなギリシア神話が描かれていたからで、星座の歴史も、今から3000年ほど前のギリシアで始まったものと考えられていたのです。しかし、今から100年と少し前になって、だいぶ話は違ってきました。 今のイラクのあたりに、チグリス川・ユーフラティス川という二つの大きな川があって、そこにかなり古くから文明が栄えていたのはご存じかと思います。歴史の教科書でもおなじみの「メソポタミア文明」で...

人造宝石商

宮沢賢治は人々に安価で宝石を楽しめるようにと、人造宝石で商売することを考えていたようです。 父政次郎に東京で人造宝石商を始めたいと提案した結果、猛反対を受け実現には至りませんでした。 友人が結核で伏したときも当時一ヶ月80円の給料にうち30円もその友人に仕送りをしたと言います。 お給料20万円だとしたら8万円も仕送りしてたってことですよね。すごいことです。 そんな賢治ですからきっと宝石商を始めても利益にはつながらないことを政次郎は見越していたのかもしれません。 そして賢治は嫌々ながら家業を手伝わされることとなります。 当時の友人に宛てた手紙からも自暴自棄に陥っていたという様子が受け取れるようです。 ただ、賢治が人造宝石商を始めていたとしたら。 どんな素敵なものができていたんだろうと思うと惜しく思います。 世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。 そう残した賢治の言葉が当てはまるなぁと思ってしまいます。 ときに皮肉なことに、もし世界全体が幸福になったら世界はどうなるのか? そんな研究をした学者さんがいました。 次回はその話でも。

賢治は猫が嫌い?

宮沢賢治の作中には沢山猫が登場します。どんぐりと山猫、猫の事務所、セロ弾きのゴーシュ、注文の多い料理店…しかし賢治は猫嫌い。そんな説が世に出回っておりました。なぜでしょうか。 描を擬人化した『銀河鉄道の夜』の作家、ますむら・ひろし氏著の『イーハトーブ乱入記 僕の宮沢賢治体験』では、宮沢賢治の『猫』に「わたしはねこが大嫌いです」というフレーズがあったため研究者は「賢治は猫が嫌い」と位置付け、擬人化した猫での制作を反対したそうです。それに疑問を感じたますむら氏は、当時賢治が友人にあてた手紙などから、その頃ノイローゼ状態であったことをつきとめました。東京で人造宝石商をやりたいという夢を父に拒否され、家業の質屋の店番を不服ながら勤めていた頃に『猫』は書かれていたのです。 賢治はやりきれない思いを『猫』で表したのではないかと。 また、賢治のノートにこんな落書きがあります。同じ頁に数点猫の落書きが載っていました。 こんな愛くるしい猫を書く人が『猫嫌い』 だと私には到底思えないのです。 実になめらかによるの気圏の底を          猫が滑ってやって来る。 (私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)              宮沢賢治『猫』より抜粋

雪渡り

宮沢賢治の故郷岩手県花巻はまだまだ寒さも厳しい季節です。 賢治といえば、童話と思う方が多いのではないでしょうか?「銀河鉄道の夜」や「春と修羅」「注文の多い料理店」など数々の名作が残されていますが、意外にも生前彼の作品はほとんど一般に知られることはありませんでした。 宮沢賢治の父は質屋を営み、地元では裕福な家に育ちました。鉱物採集に熱中し、周囲から「石っこ賢さん」と呼ばれていたほどでした。その後、飢饉のため質入れに来る貧農たちに、わずかなお金を渡し不自由なく暮らす家業に疑問を持ち始め、25歳の頃、童話作家を目指し家出同然に上京してしまいます。雑誌『愛国婦人』に童話『雪渡り』を発表しました。これで得た稿料は5円(現在約2万円程度)。これが生前唯一の稿料だったそうです。その後、妹トシの病気の一報を受け帰郷、花巻農学校の教諭に就任します。 意外なことに、生前の童話原稿料として貰った賃金は『雪渡り』の5円のみ。没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていきました。数々の名作は後に広まっていったんですね。 ふと、窓越しにIHATOVの雪景色を眺めました。 “雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来ているらしいのです” (雪渡りその一(小狐の紺三郎)より)

サイエンティスト

宮沢賢治の作品は独特の表現や言い回しが特徴です。 作中の色を鉱物で例えたり、風が吹く様子を“どうどどどどう”や雫が落ちる音を“ついついとん”などと、一般的な表現とは違う世界観を持っていました。 通常、執筆とは机に原稿用紙を広げ、にらみ合う。そんなイメージですが、賢治の場合は違いました。岩手の野山を歩き、風や光を全身で受け、感じたことを手帳に記す方法で物語は作られたのです。 大正十三年。 賢治は「春と修羅」「注文の多い料理店」をそれぞれ単行本として自費出版しましたが、全く売れず。広く一般に知られることはありませんでした。しかし、この処女詩集は文壇の一部を驚倒させることとなります。 辻潤は賢治の独創性と情緒や感覚の新鮮さを「若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら『ツァラトストラ』を忘れても『春と修羅』を携えることは忘れはしないだろう」と褒めちぎり、また、佐藤惣之助が賢治の言葉の特異性に「奇犀冷徹その類を見ない。大正十三年度の最大の収穫である」と大絶賛したのです。 その作品を通し、草野心平もまた賢治の作品に魅了され、交流を深めます。 その2人の関係がまた奇妙にも面白い様子が残されていました。  「多分は七月、私ははじめて宮澤(宮沢)賢治に手紙を書いた。(略)…特徴のある筆蹟と、不思議と思える文面が自分にはひどく印象的だった。特にその中の『私は詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンティストとしては認めていただきたいと思います』といった一節は、四十数年たったいまでも憶えている。」 『詩人 草野心平の世界 -賢治からもらった手紙-』 より

意外とすねかじり

1921年(大正10年)1月23日夕方、東京行きの汽車に乗り家出。翌朝上野駅に到着。鶯谷の国柱会館を訪ね、「下足番でもビラ張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる。本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める。高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事はじゃがいもと豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した。保阪嘉内にはたびたび入信を勧める手紙を送った。心配した父の政次郎が小切手を送ったが送り返した。4月、政次郎と伊勢、比叡山、奈良を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが賢治の心は変わらなかった。7月、保阪と決裂、以後疎遠になる。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報を受け取り、原稿をトランクに詰めて花巻に戻る。家族には原稿を「童子(わらし)こさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという。 12月3日、稗貫郡立稗貫農学校(翌年岩手県立花巻農学校に改称)教諭となる。地元では「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった。雑誌「愛国婦人」12月号と翌年1922年(大正11年)1月号に『雪渡り』掲載。この時の原稿料5円が生前唯一の原稿料という。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それもなにかと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎(1924年死去)が結核になると毎月30円送っている。また花巻高等女学校の音楽教師藤原嘉藤治と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ。 >理屈をつけてまきあげる …意外とすねかじりなおぼっちゃまだったようです。 しかしながら友人の結核が発覚したのちは毎月仕送りをするお金に固執しない人のためを思う賢治だったようです。

世界に愛される物語

1924年(大正13年)4月20日、『心象スケッチ 春と修羅』刊行。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版、定価2円40銭。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという。本は売れず、賢治もほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイストの辻潤が読売新聞に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌『日本詩人』12号で若い詩人に「宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう」と例にあげた。中原中也は夜店で5銭で売っていた『春と修羅』のゾッキ本を買い集め、知人に配っている。同年12月1日、『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』刊行。定価1円60銭。盛高の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用の工面に苦労しながら東京で印刷製本、出版社「光源社」の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った。本の挿絵を担当した菊池武雄は『赤い鳥』主催の鈴木三重吉に『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』を送ったが「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな」と返された。しかし翌年1月、『赤い鳥』に『注文の多い料理店』の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった。7月、詩人の草野心平の同人誌「銅鑼」に参加する。11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査に協力。この場所を賢治は「イギリス海岸」と名付けていた。 賢治他界後、こんなにも読まれている童話たちは、皮肉なことに当時は脚光をあびることはありませんでした。 自分には才能がなかったと生前賢治は周囲に話していたそうです。 賢治が現在に生きていたらどう思うでしょうか。 どの作品よりも独自性があり美しい童話たちは現在世界中で愛されている事実を。

素直になれない恋心

小学校教員の高瀬露という女性が協会にしばしば通ってくるようになる。 高瀬は賢治の身の回りの世話をしようとしたが、賢治は居留守を使ったり、顔に灰を塗って出てくるなどして彼女の厚意を避けようとした。 協会に人が集まった時、高瀬はカレーライスを作ってもてなしたが、賢治は「私には食べる資格がありません」と拒否。 怒った高瀬はオルガンを激しく引き鳴らした。その後彼女は賢治の悪口を言ってまわるようになったが、父の政次郎は 「はじめて女のひとにあったとき、おまえは甘い言葉をかけ白い歯を出して笑ったろう」  と賢治の態度を叱った。 …とあります。 禁欲宣言をしていた賢治でした。 その女性はその宣言にはそぐわない人物だったのでしょう。 そして、自分の余命は僅かだったのですから、人の幸せを願う賢治にとってのちに悲しませる ことは避けたかったのかもしれません。 しかし、本心は素直になれなかった恋心だったのではないでしょうか。 というか政次郎さん素敵な名言を残したなぁ…

アメニモマケズ

1930年(昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる。5月、東磐井郡陸中松川駅前の東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する。  1931年(昭和6年)2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。 父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資をおこなって花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった。しかし技師となった賢治は製品の改造・広告文の起草・製品の注文取り・販売などで東奔西走する。 農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キロもの製品見本を鞄に詰めて上京する。 翌20日、神田駿河台の旅館「八幡館」に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。 政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻った。すぐ病臥生活となる。 11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書く。 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ ※上記、宮沢賢治の詩は著作権が切れていますので掲載いたしました

道楽の農業

1926年(大正15年)3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いているが、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では「来春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意をしている。 4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装して、周囲を開墾し畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなどを栽培、チューリップやヒアシンスを咲かせた。 賢治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。 農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んですませている。また畑の白菜を全て盗まれるといういやがらせにあった話を詩に残している。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習をはじめた。6月『農民芸術概論綱要』起稿。 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。 また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談にのった。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている。 12月2日、上京。タイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語を習い、観劇をする。 資金は父親頼みだった。18日、高村光太郎を訪ねている。年末帰花。  1927年(昭和2年)2月1日 、 岩手日報夕刊二面で「農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで賢治の活動が紹介される。これが社会主義教育と疑われ花巻警察の聴取を受ける。以後羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散した。 本統の百姓になろうとした賢治だったが、家に既にあった別邸、高級品のリヤカーを使い、お金を包んで解決する。 貧困の農夫からはそんな賢治が異様にうつり、受け入れることができなかったのでしょう。

淡い恋心と近づく死の気配

1928年(昭和3年)6月 、胆沢郡水沢町(水沢市)の豪家出身で、伊豆大島に住む伊藤七雄を訪問。 伊藤は結核療養のため大島に移り、ここに園芸学校を建設するにあたって賢治の助言を得るため相談していた(1931年伊藤の死去に伴い学校は消滅した)。 この訪問は伊藤の妹・チヱとの見合いの意味もあったが、チヱの回想によれば賢治は結婚について全く眼中にない様子だったという。しかし1931年森荘已池を訪ねた賢治は「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話している。 「昭和六年(略)宮沢さんは私を、勤め先の岩手日報社に訪ねられ、その折(略)伊藤さんと結婚するかも知れませんといわれ、けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主になるでせう。―というような意味のことをいわれたのでした」(『宮沢賢治の肖像』) 「あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から楽しそうに兄と話して居られましたが、その御話の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらっしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かせられました」 とうとう賢治とチヱは結びつくことなく、やがて七郎も死ぬことにより、別々の人生へと歩みは分かれてゆくことになる。 肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺湿潤との診断を受ける。 以後実家で病臥生活となる。

最後の別れ

1932年(昭和7年)3月、「児童文学」第二冊に『グスコーブドリの伝記』発表。 挿絵は棟方志功。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む。前年冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった。 1933年(昭和8年)9月17日から19日まで鳥谷ヶ崎(とやがさき)神社のお祭りが行われ、賢治は門口に椅子を出して座り神輿や山車を見物した。 翌日の朝、昨夜賢治が門口にいるのを見た農民が相談に来た。 話をしたあと賢治は呼吸が苦しくなり、往診した医者から急性肺炎のきざしと診断される。その夜、別の農民が稲作や肥料の相談にやってくる。 賢治は着物を着換え1時間ほど丁寧に相談にのったあと、すぐ二階の病室に運ばれた。 心配した清六がつきそって一緒に寝たが、賢治は「この原稿はみなおまえにやるから、もし小さな本屋からでも出したいところがあったら出してもいい」と話した。  9月21日 、午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と唱題する声が聞こえたので家族が急いで二階の病室に行ってみると、賢治は喀血し真っ青な顔になっていた。 政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。 政次郎が「おまえもなかなかえらい」と答えて階下に降りると、賢治は清六に「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言った。 病室に残ったイチが賢治に水を飲ませ、体を拭いてやると「ああいい気持ちだ」と繰り返し、午後1時半、呼吸が変わり潮がひくように息を引き取った。 没時年齢は満37歳。 葬儀は宮沢家の菩提寺で営まれたが、18年後の1951年(昭和26年)宮沢家は日蓮宗に改宗し、墓所は花巻市の身照寺に移された。 また国柱会から法名「真金院三不日賢善男子」が送られた。 江戸川区の国柱会には賢治の遺骨の一部が納められている。